日本鍼灸師会50年の歩み その1

はじめに

日本鍼灸師会の設立は昭和25年11月30日である。

場所は東京の参議院会館第1会議室。初代会長は大阪の樋口鉞之助氏で、その半年後の昭和26年5月10日に早くも社団法人の許可を得ている。
それは、連合国軍総指令部(GHQ)から鍼灸禁止要望が出された所謂マッカーサー旋風がやっと一段落し、新憲法下で「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」(法律第217号)が制定された昭和22年の暮れから間もない頃であった。

これに関し是非記して置かねぱならないことは、2ケ月前の9月17日・18日の両日、大阪の久本寺で開催された全国鍼灸懇談会(世にいう久本寺大会)のことである。
この全国鍼灸懇談会は、鍼灸を憂うる全国の同志が大阪に参集し、その将来について徹夜で徹底的に討議を重ね、今後の鍼灸をどのようにするかについて意見を集約した結果、鍼灸とマッサージを切り離した鍼灸師だけの全国的な単一の組織と強固な団結が必要として、翌日の9月18日を鍼灸専門団体結成準備会に切り替え、そしてこの日を期して社団法人日本鍼灸師会の仮結成を高らかに宣言したことである。
この全国鍼灸懇談会の様子は、懇談会の発起人の呼びかけ状から開催の案内状まで、本会の設立以来の会員であり、元理事、保険部長であった井垣博夫氏が大切に保存されていたので、当時の資料と記録をもとに前項の「日本鍼灸師会設立の意義と21世紀を生きるために」を執筆していただいた。

その中で、当時の時代的背景、全国鍼灸懇談会発起人呼びかけの往復はがき、懇談会の案内状、懇談会参加記、日本鍼灸師会結成大会、創立総会、代議員会に至るまで記していただいたので、夜を徹して真剣に討議された当時の内容を窺い知ることができる。どうかご参照いただきたい。
当時は戦後間もない混乱期で、食料事情も交通手段も現在とは比較にならないほどの悪条件の中で、鍼灸業界の将来を思う一心から、全国各地から満員の夜汽車に乗り継いで馳せ参じた先輩各位の純粋さと鍼灸に賭ける情熱を我々後輩は決して忘れてはならない。

日本鍼灸師会の原点は、まさにこの久本寺大会にあり、ここが出発点である。
本年はその日本鍼灸師会が創立してから50周年にあたり、西暦2,000年という区切の年でもある。その時にあたり、過去を繙き、創立時の先輩各位の心にふれることにより、日本鍼灸師会創立の精神を再確認するとともに、来るべき21世紀に活かすため、ここに50年の歩みをつづる次第である。

設立前後の時代背景

昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れて無条件降伏し、第2次世界大戦は終結した。

昭和21年11月3日には日本国憲法が公布(22年5月3日施行)され、翌22年4月20日の第1回参議院選挙にて業界が推薦した鍼灸師の小林勝馬氏が全国区の3年議員に当選した。また、同年(22年)6月20日、静岡の伊豆半島伊東にて全国業友の大会がもたれ、全国鍼灸、按、マッサージ師会連盟(全鍼連)を結成した。
その頃からGHQ旋風が始まり、同年(22年)7月2日には日本鍼灸学会の石川日出鶴丸会長(医博、京大名誉教授、三重県立医学専門学校長)は、GHQ三重軍政部衛生課に呼び出され、鍼灸に関する諸々の質問を受け、答弁している。

当時、連合軍進駐軍下の日本では、既存のすべての法律よりもマッカーサー元帥を総司令官とするGHQから出される指令が最も権力があり、また、それはオールマイティーであった。その最高の権力を持つGHQから、厚生省に対し「鍼灸をはじめ、あん摩、柔道整復等、医師以外の者の治療行為の禁止」の要望が出された。厚生省はこれを医療制度審議会に諮問した。これが世に言うGHQ旋風で、昭和22年9月23日のことである。

GHQ旋風

鍼灸最大の危機であったこのGHQの鍼灸禁止要望は、明治政府の漢方から西洋医学への大転換と同様、鍼灸と鍼灸師の生死を決める重大な事件であり、それこそ当時の業界人を震憾させた。

GHQによる鍼灸禁止の大きな理由は、
  1.消毒設備と意識に欠け、不衛生である。
  2.科学的根拠がない。
  3.鍼をしたり灸をするのは野蛮な行為。

 というものであった。

この絶体絶命の一大事件に対して、いち早く対応して下さったのは関西では石川日出鶴丸博士を中心とする龍胆会のグループである。石川先生は鍼灸の学問的理論を先頭に立って説明する役を引き受けてくださり、龍胆会のメンバーである樋口鉞之助、藤井秀二、三好潔、清水千里等の各氏が石川先生の手足となって大いに活躍して下さつた。
一方、関東では厚生省管轄の財団法人東方治療研究所長の板倉武医博をはじめ、博士のご指導とご協力を得ながら岡部素道、花田伝、小守良勝等の各氏が互いに連絡をとり合って大奮闘し、関西、関東を問わず日本中の多くの人々がそれこそ昼夜を分かたず東奔西走し、この難局を乗り越えるため必死に猛烈な運動を展開した。

特に石川先生は、GHQや厚生省に対して「自律神経二重支配の法則」など当時の最先端の科学的理論をもって鍼灸には科学的な根拠があると力説して下さり、石川先生に同道して実技を担当した大阪の樋口鉞之助氏はGHQ三重軍政部のフィリップ・エイ・アイズマン軍医大尉をはじめ、当時、厚生省の担当官であった五十嵐技官、芦田技官、高田課長等にも実際に鍼を刺入し、鍼は痛いものでも野蛮なことでもなく、東洋独自の伝統的な治療体系を持った立派な医術であることを力説した。

また、このGHQの要望を討議する場として厚生省が諮問した医療制度審議会に、板倉武博士が東方治療研究所長として加わっていただき、西洋医学は診断に重きを置く医学であるが、鍼灸など東洋医学は治療に重きを置く医学である。そして鍼灸には鍼灸独自の診断と治療体系があると主張してくださったことも忘れてはならない。
あるいは本会第二代会長で幅広い人脈を駆使してご支援してくださった相川勝六衆議院議員、鍼灸師で参議院議員であった小林勝馬議員等が、厚生省や国会議員との連絡調整を緊密に行える立場にあったことも幸運であった。

それと同時に医療制度審議会の委員であった当時の日本医師会の中山寿彦会長や厚生省の担当官も鍼灸に対して好意的に対応して下さったことなど、多くの方々のご支援と必死の努力により、この絶対絶命の難局を乗り越えることができ、昭和22年12月20日、「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」(昭和22年12月20日公布、昭和2年1月1日施行法律第217号)として身分法を確立することができたのである。先ずこのことを明記して衷心より感謝申し上げたい。

因みに鍼灸の恩人である石川日出鶴丸博士は、法律制定1ケ月前の昭和22年11月8日、度重なる心労と強行スケジュールが重なったためか突然不帰の客となられてしまった。まことに残念でならない。
石川博士の真実を探求する科学者としての崇高な態度に深く敬意を表すると共に博士の尊い貴重な業績を偲び、今はただ心よりご冥福をお祈りするばかりである。

日本鍼灸師会設立の背景

GHQの問題と共に忘れてはならないことは、医療保険や医療扶助等の問題である。
鍼灸の保険取扱いは、地方の小地域健康保険組合の一部など、戦前から行われていたところもあるが、府県単位で実施されたのは富山県が最初である。それに遅れること年余、昭和24年2月1日より愛知県保険鍼灸師会が発足して県知事及び健康保険組合連合会県支部長と覚書を取り交わして保険の取扱いを開始した。

その後、滋賀、宮崎、神奈川などの各県で続々と取扱いが開始され、燎原の火の如く全国的に広まる気運にあった。しかし、これを好ましくないとした厚生省は昭和2年1月19日、保発第4号保険局長通知をもって団体協定を禁止し、同意書添付を義務付け、鍼灸の保険は事実上取扱わせない方針がとられたため全国的に衰退してしまった。

また、同年5月に制定された生活保護法の医療扶助の取扱いに、あん摩師、柔道整復師は明記されたが、鍼灸師は除外され、この制度に入ることができなかった。
これら、GHQの指摘や保険取扱いの問題等が相い重なると同時に、昭和22年6月に設立された「全国鍼灸、按、マッサージ師会連盟」は、鍼灸とあん摩、マッサージが独自に活動できるよう、わざわざ会名に区切り点を入れ、その上に大同団結しようとしたものであったが、いつの間にか鍼灸、按、マッサージの区切り点が外され、鍼灸の独自性を発揮できない状況に追い込まれていた。

これらのことから全国の鍼灸師に大きな危機感と自覚を促し、鍼灸は鍼灸師自らの手で守らねばならないという機運が高まり、全国鍼灸懇談会の開催、或いは日本鍼灸師会設立の大きなバネとなった。

日本鍼灸師会の基本方針

このような時代的背景を背負って昭和25年11月30日に日本鍼灸師会は設立されたのである。故に、GHQから指摘された鍼灸師の資質の向上、鍼灸の科学化、消毒衛生設備とその意識の向上に邁進すると共に、一方では鍼灸の保険取扱いの推進と医療扶助等の公費治療の導入を図り、もって国民の需要に応えることが最重要の方針とされた。

また、その実現を図るためには、鍼灸とマッサージの混合団体ではなく、鍼灸師が強固に団結した全国単一の社団でなくてはできないと確信して鍼灸専門団体の設立を目指したのである。

このことから日本鍼灸師会の基本方針は、
  1.社団法人としての鍼灸師の強固な団結
  2.身分法の改正
  3.教育機関の整備
  4.保険取扱いの獲得
  5.鍼灸の科学化

 の5項目を掲げた。

尚、創立時の結成大会、代議員会、総会の模様は、前項の「日本鍼灸師会設立の意義と21世紀を生きるために」で井垣博夫氏が執筆されているのでここでは割愛する。