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No.14 土の感触・めざめる感覚 ~土でめざめる原始の感覚

陶芸作家 稲垣竜一さん (プロフィールはこちら)

太古の昔、人は素足で土を踏みしめ、素手で砂を掴んできました。それがいつしか、周りに土が見えなくなり、気づけばコンクリートに包まれてしまって・・・現代人は、五感に伝わる大地の気を忘れてしまったのではないでしょうか?ロクロを引く前、無心で土の塊を揉んでいるときに、こうした「古の感覚がよみがえってくる」と陶芸作家の稲垣さんはおっしゃいます。陶芸家らしい、土をとおして得られる不思議な感覚について、思うままに語っていただきました。きっとみなさんも、土に触れてみたくなりますよ。
ありきたりで、すみません。まずは陶芸に出会ったきっかけ、始められたいきさつを教えてください。
出会った“きっかけ”なら、まだ小さい頃ですね。父が陶芸をやっていましたから(笑)。子どもの時から、その父の背中を見て育ってきているわけです。だから、「出会った」ではなくて、気づけば「陶器の中にいた」というのが正解でしょうか。
物心ついたときには、目の前に陶器があふれていたと。うらやましい環境ですね。それから、本格的に陶芸を始めようと思われたのは?
「仕事としてやりたいな」と思ったのは、大学卒業後、1 年くらいしてからでしょうか。バックパッカーでいろいろな国を回って、いろいろな人と出会っているときに、ふと父の背中が思い浮かんだんですよ。どこに行っても父の背中が、仕事場の風景が浮かんできて・・・それからですね、同じように土を触って何か物を作る仕事をしてみたいなと。自分に向いているかどうかは別にして「やってみたい!」というのは、その頃思いました。
「土から伝わるものを感じるままに作り出す。不思議と「これだ!」と思えるものが出来たりします」
ロクロを使われるということですけど、最初に何かイメージみたいなものがあるのでしょうか?設計図を書いてから、作り始めるとか。
僕の場合は、最初にデッサンというか、簡単なクロッキーみたいなものを書いて・・・完成図が頭にないと、どの土を選んでいいのかわからないんです。土によって焼き方とか焼き色が変わってくるので、あとで「ちがう土を使えば良かった」ということにならないように、最初にだいたい考えますね。もちろん、作っているときにイメージが変わることはありますよ。
最初に簡単な設計図、デッサンを書いて、作っていくということですね。そして、その最初の設計図どおりには・・・なかなかならない?
ならなくていいんだと思います。土は生き物だと思っています。ロクロを引く前の「土揉み」で、その土を揉んでいるときに、土から伝わるものを自分で感じて・・・「作ってやろう」というのではなくて、この土で「何かを作らせてもらう」という気持ちで作り出す。すると不思議なことに、自分の中で「あっ、これだ!」というものが出来るときがあります。設計図は頭にだけ置いておいて、図面を見ずにずっと感覚だけで作っていると、「あっ、ここだ!」という一瞬が必ずあります。

作家のイメージと土がマッチしたとでも言うのでしょうか。作り手の気持ちがうまく伝わる土と、そうでない土。土以外でも、気持ちが落ち着いているとき、忙しくて疲れているときで、やっぱり違うものですか?
全然違います(笑)。僕は未熟なのか、よそ事を考えながら引いたロクロでは、気に入った出来上がりの器になりません。反対に、ロクロを“パッ”という感じで引いたときは、「これ、絶対いい感じになる」というのがわかるんです。何となく漠然と、もちろん根拠はないですけど・・・不思議と感じるものがあるんですね。
「すべてが好みのタイミングだと、気持ちが“グッ”と入りやすい。心地いいシチュエーションは大事にしています」
日常生活では天気に一喜一憂。気分も変わって、気持ちの乗りも左右されることがよくあります。作品作りも、天候によって集中力に差が生まれたりするものでしょうか?
気分的には晴れていて、風が気持ちいいなという日が好きなんですけど・・・夜中雨が降っている方が、作りやすかったりしますね。なぜか落ち着いて。何なんでしょうね(笑)。理由はわからないですけど、気持ちは落ち着いたりします。あとは雪。雪が降って、しんしんと積もっているようなときとか、そういう周りが静まりかえるときも作るのがとても心地いいです。
では夏と冬とを比べたら、冬の方が落ち着くというか、作りやすいですか?寒いと思いますけど・・・。
もちろん、冬は寒いですよ(笑)。真冬なんて、水よりも土の方が冷たくなりますから。ただ、真夏の日中、すごく暑くて「今日は40℃ぐらいあるかも?」みたいなときは、どうしても長くは続きません。集中力が続くか続かないかで言うと、冬の方が絶対に続きます。
では、食事はどうでしょう。よく修行僧が肉を食べずに菜食で精神修行するのは、菜食だと呼吸が深く、長く、ゆっくりで、肉食はその逆――つまり、精神的に集中しやすい体内環境には菜食の方がいいと聞きますが・・・これはどうでしょう?
実はそれ、実証済みなんです(笑)。今は子どもがいるので、普通の食生活になっていますけど・・・ずっと玄米・菜食で通した時期がありました。というのも、アメリカで肉ばかりを食べ過ぎて、体調を崩したんですね。そのとき「ちょっと玄米にしてみたら」ということで、それから玄米を続けてみたんです。そしたら、もちろん痩せてすっきりするというのもあるんですけど、においに敏感になり、音に敏感になり、触れることにも敏感になって・・・とにかく「今までと違う」感覚を実感しました。
もちろん集中力があってのことですけど、最高の気分の中で、それまでで一番気に入った作品が出来たとか、そういう経験ってありますか?

自分の“作ろう”という思いと土、その土を触ったときの感覚、作る時間とか周りの雰囲気――すべてが自分好みのタイミングだと、すごく集中しやすいというのか、気持ちが“グッ”と入りやすいですね。そういう経験はあります。好きな音楽を聞いていたいとか、音がなくていいという人とか、いろいろありますけど、自分が心地いいシチュエーションは大事にしています。
「どんな作品も“気” を持っている。抹茶茶碗の“わびさび” も、その現れかもしれません」
陶芸を習われていたりすると、手慣れた方もいらっしゃいますよね。ただ、そういう人が引くロクロと、プロとでは速さも違うだろうし、いわゆるぎこちないというか、スムーズじゃないというか・・・全然違うわけですよね。どこか違うのでしょうか?
何回もやり直すよりは、一回で、スピード感のある方が、いいものが出来ると思います。それ一点に集中して、“パッ”と気持ちが入っているものと、何度も「ああでもない、こうでもない」と言いながら手直ししているものとでは、出来は自ずと違ってきます。素人玄人じゃなくて、“瞬間”に封じ込める“技”なのだと思います。
例えば、抹茶茶碗。面取りしたり、いろいろ削いだり、作業的なこともあるんですけど、抹茶茶碗というのは、あまり触らずに――シンプルだけど、一回で引いていって、形がきれいに――そこに“わびさび”が宿るような気がします。ただ、ものすごい数を作らないことには、その境地にはたどり着きませんよ。それが“プロ”ということになるでしょうか(笑)。
そんな「抹茶茶碗」を始め、多くの作品を展示している美術館ですが、どこか難しい印象を受けてしまいます。作品を配置する間隔とかも、距離があり過ぎるように見えてしまって・・・何か意味があるのでしょうか?
作品を並べる配置ですか?良い作品でも、悪い作品でも、それぞれ気を持っているはずなんです。“わびさび”というのも、その現れかもしれません。これは勝手な解釈ですけど、作品同士が離れているというのは、その作品が持っている気と、隣にある作品の気がダブらないようにしているんだと思いますね。
作品があって、オーラみたいなものがあるとすると、それが重ならないように配慮していると。近過ぎてもいけないし、離れ過ぎていてもいけない。
見ていてしっくりいかなかったりとか、邪魔に感じたりとか。何となく「もうちょっと離せばいいのに」と感じる・・・そんなことなのだと思います。作品の優劣を付ける「公募展」などで審査員は、ずっと会場の中を歩くんです。会場の中を歩いて、何を見てると思いますか?その作品から出ている“気持ち”であったり、“気”であったり・・・その作品が持っている魅力、まず先にそこを見るんです。
「しっくりする。そういう自分が持っている感覚を、もっと信じてあげてもいいと思うんです」
作品から出る気を感じているんですね。ちなみに作家さんのイメージ、例えば「この順番で見てほしい」とか、何か見方みたいなものはあるのでしょうか?
見方は、自分の好みを優先されるのが一番だと思います。好みのものを10点に絞ったとします。でも、選ばれますよね、その中から一つだけを。それは、重さであったり、見た目であったり、直感であったり――だいたいの人は触ってみて、重さもピチッとしていて、見た目も気に入っていて、持った感じが何かしっくりする・・・そう自分で感じたものを一つ、選ばれるんじゃないですか。その「しっくりする」というのが、さっき言われたオーラというのか、パワーなのか、気なのか・・・そういうものが自分の波長と合った一つ、オンリー・ワンなのだと思います。

同じものが10個あったとしても、10 個の中で他とは何となく違う「これだ」という一番すきなものが出てくる。結局、それは、最初に自分がいいと思った器だったりする――何となくわかるような気がします。
自分と波長が合うというのは、そういうことなんでしょうね。人に「これはいいよ」と勧められたとしても、嫌いじゃないけど、あまり魅力を感じないというのは、その作品とその人との波長が合わないんだと思います。人と同じように、相性なのかもしれませんね。
これでご飯を食べたい、コーヒーを飲みたい。そんな個々の直感が、最初の目利きということになるんでしょうか。
もうちょっと自分の持っている感覚を信じるというのか、それを重視してもいいと思うんです。ブランド名に流されてしまうのではなくて、自分が“パッ”と見て「いいな」と感じたものを「いい」と認める。それでいいんじゃないでしょうか。
「土を触って、癒されて・・・土を触ることで気持ちがアースされる。とても素敵なことです」
感覚と言えば、指先の感覚。先ほど「土を感じてみる」と話されていましたが、その時、土から伝わる何かを捉えるのは指先ですよね。その感覚を研ぎ澄ますにはどうされているのですか?
「臨床美術」でも、指先で物を作ったり、書いたりというのは、脳が活性化されるとあります。やはり指先で何かするというのは、人間にとってはすごくいいことなのだと思います。だから鍛えた方がいい。僕は玄米食をやって良かったという体験があるからかもしれないですけど、人間の指先を敏感にさせるには、そういう粗食であったり、自然であったり、人間本来の“姿”がとても大切なんだと思っています。
そう言えば最近の子どもは屋外で遊ばないとか、土いじりをしないとか・・・自然じゃないのは、大人も一緒でしょうけど(笑)。
子どもが泥団子を作って遊ぶ。これも子ども本来の姿ですごくいいことでしょ?なのに、汚れて帰ってきたら怒られるというのは、かわいそうだなと (笑)。土と戯れ、自然に触れる、きれいな景色に感動する、こんな普通のことが、どんどん少なくなっていますよね。
土の感触。これは都会暮らしと言いますか、近代的な生活をすればするほど忘れられてしまうのかもしれませんね。たまには仕事を忘れて土に触れる。地べたに寝転んでもいいだろうし・・・古の記憶を感覚としてよみがえらせるのは、必要なんでしょうね。
陶芸教室に習いに来られて、土を触って、癒されて帰られる方がいらっしゃいます。僕が思っているだけかもしれないですけど、犬がお腹が痛くなると、ちょちょっと穴を掘って、べたっと腹ばいに寝ころんで・・・まるで地面に電気を流すように。陶芸を通して、そんな感じがあるんじゃないかな?と思います。自分の中に、もやもやしたものがあったり、何かつっかえているものがあったりしても、土を触ることで気持ちがアースされる。そうだとしたら、とても素敵なことです。
今朝、「はだし走り」ってテレビで紹介していました。何でも「はだしで走ると、健康に良い」とか、そういう番組でしたけど・・・確かに感性が磨かれて、普段使わない感覚もよみがえってくるんじゃないかと思いました。
それ、すごくよくわかります。高校時代ずっと柔道していて、よくはだしで砂利の上とかも歩かされたり、校庭を走るのもはだしだったんですけど・・・はだしの感触が、すごく感じやすいというか。一度はだしで庭先に立ってみると、今まで気づかなかった感触にハッとするかもしれませんね。
土の感触――それは足の裏でも手の平でもいい、それで古の感覚が目覚める。昔は靴なんて履いてなかったわけですから。そういう原始感覚に気づくことが、自分の思いを形にする力になる――そんな気がします。
土に触れることで、原始感覚が目を覚まし、五感が鋭くなる――これは現代人にとって大事なことかもしれません。心のままに・・・それは芸術家だけのものではないようです。大地を、空を、五感にまかせて感じれば、私たちにも何か見えてくるものがありそうですね。どうもありがとうございました。(インタビュアー:一見隆彦、秦 宗広、赤井康紀)
 

稲垣竜一さんプロフィール

1967年三重県四日市市生まれ。1989年大阪芸術大学工芸学科陶芸卒業。1年間オーストラリア、ベトナムなど東南アジア5か国、インド、スリランカ、イギリス、フランス、アメリカなどを廻り、陶芸の道を歩み始めて父と森正氏に師事。アメリカユミキヨセエ房にて作陶。イギリス、ベンリスにてPotfest参加。日本の伝統と文化を根にした作陶を心がけて各地で個展を行っている。第3回国際陶磁器展美濃、朝日現代クラフト展、朝日陶芸展、長三賞、信楽陶芸展、東海伝統工芸展等入選。三重県美術展優秀賞、四日市市美術展市長賞。